2010年10月28日木曜日

地中海式ダイエットと無形文化遺産

今日は地中海式ダイエットの話。
次回配本の『ヴィエ・デル・グスト』の記事の解説です。

2008年9月に、イタリアは、スペインなどと共同で、「地中海式ダイエット」をユネスコの無形文化遺産に登録するよう申請しました。

いよいよその審査が、11月14日から19日に、ナイロビで行われます。
果たして、地中海式ダイエットは、無形文化遺産になるのでしょうか。


「無形文化遺産」というのは、「世界遺産」とはちょっと違って、厳格な基準があるわけではないのだそうです。
それにしても、一地域の食生活を文化遺産とみなすとは、思いついた人もたいしたもんですねえ。

そもそも、この立候補は、スペインの現政権(サバテロ首相)の発案で実現しました。
参加したのは、スペイン、イタリア、ギリシャ、モロッコ。


「地中海式ダイエット」というのは、みなさんよくご存じの、アンセル・キーズ博士の研究成果などが元になって生まれた食スタイルの概念のこと。

大雑把にまとめてしまえば、

野菜や果物をたっぷり採って、魚を食べて、オリーブオイルを使い、ワインを少量飲む。
そうすれば健康で長生きできる。

現在ではこの理論も様々な形で検証されて、長所も短所も見つかっているようですが、イタリアでは断然支持されています。
今回の立候補では、イタリア人が自分たちの国の食スタイルに、揺るぎない誇りを持っていることがよく分かりましたねえ。

イタリア人の平均寿命は、男性が78.1歳、女性が84.1歳。
世界のトップ10に入る長寿国。
まあ、平均寿命世界一の日本から見ると、だからどうなんですか、ということなんですが。

それと、こんな数字もあります。
EUの統計では、イタリア人の平均身長は、168.1cm。
ヨーロッパ人の平均は169.9cmなので、約2cm低い。
でも、平均体重は68.7kgで、ヨーロッパの平均は72.2kg。
身長と体重の割合からすると、一般的なヨーロッパ人よりスリム。

まあはっきり言って、日本人は、多分、身長はイタリア人より少し低くて、体重はかなり少ないので、イタリア人よりスリム。
地中海式ダイエットが文化遺産なら、和食も文化遺産でいいじゃないかって話ですよねえ。
やっぱりここは、思いついて実行に移した人が勝ち、ということでしょうか。


スペインの提案を受けて、イタリアで動いたのは、コルディレッティ(全国自営農業者連盟)という経済団体です。
つまり、立候補の根本には、自国の農業を守ろう、という意図があります。

『ヴィエ・デル・グスト』では、立候補当時、イタリアの農業省の大臣だったルーカ・ザイア氏にインタビューしています。
その中で、ザイア氏は、ずばりこう言っています。

「地中海式?イタリア式と呼びましょうよ」

ザイア氏の所属政党は北部同盟。
農業省の大臣になる前は、トレヴィーゾ県知事、ヴェネト州副知事を歴任。
そして今年、ヴェネト州の知事になっています。
まさに、どっぷり北部人。
当然、「地中海式ダイエット」には、地中海に浸っていない北イタリアも入っていなければ困ります。
つまり、イタリア人にとっては、地中海式ダイエットは、イコール、イタリア式ダイエット、なんですね。
イタリア料理は地方料理の集まりで、一つではない、といつも言っているイタリア人も、こと、地中海式ダイエットに関しては団結するようです。


下の動画は、地中海式ダイエットの無形文化遺産登録についての審議が11月に行われることを伝えるニュース。






地中海式ダイエットの話、次回に続きます。



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関連誌;『ヴィエ・デル・グスト』2008年9月号

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2010年10月25日月曜日

イタリアのハロウィン

今日はハロウィンの話。

ハロウィンて、アメリカのお祭り?
なんでも、元を正せばヨーロッパが起源で、そもそもは、キリスト教の諸聖人の日(万聖節)の前夜祭なんだそうです。

諸聖人の日は、諸聖人を祝う日で、11月1日。
イタリアでは祝日です。

翌、11月2日は、「il giorno dei morti」、死者の日。
この日は祝日ではありませんが、菊の花を持って墓参りをします。
そのため、午後は休みにするオフィスも少なくありません。

ルーツはキリスト教のイベントでも、ハロウィン自体は、イタリアにはあまり所縁のない行事ですよね。

ところが、ここ数年で、ハロウィンはイタリアにぐんぐん浸透しているのだそうです。
いっそ10月31日を祝日にして、連休に、という声もあります。


ハロウィンはイタリアでも“ハロウィン”。
アンコーナ県のコリナルドという、人口5000人あまりの町は、ハロウィンのイベントで有名。
毎年今頃は、盛り上がってます。






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2010年10月21日木曜日

アルト・アディジェの伯爵のワイナリー、マニンコール

今日もカンティーナの話。
『VS』の記事の解説です。

ワイナリーを経営する貴族の話をしていますが、今日は、アルト・アディジェでマニンコールを経営する伯爵家をご紹介。

マニンコールは、ピノ・ノワール100%のマソンなどで知られるカンティーナ。

そして経営者はこの方。

Count Michael Goëss-Enzenberg


ミヒャエル・ゴーエス=エンツェンベルク伯爵。

なんでも、父方は、オーストリアの爵位の高い貴族の家系。
母方は、18世紀に女帝マリア・テレジアの代わりにチロル地方を治めてアルト・アディジェを開拓した伝説の人物、カシアン・イグナツ・エンツェンペルクの家系なんだそうです。
エンツェンベルク家は、この伝説のご先祖の功績で伯爵に叙せられました。
ミヒャエル氏の国籍は、オーストリアでしょうか。
奥様のソフィーさんもオーストリア人。

愛妻家のワイナリーには必ずありますねえ、奥様の名前のワイン。
マニンコールのソフィーは、シャルドネ、ソーヴィニヨン・ブラン、ヴィオニエの白。


マニンコールというのは、アルト・アディジェにある農場の名前です。
1608年に、ヒエロニムス・マニンコール・ツー・エーレンハウゼンによって造られました。
1662年に、マニンコール家とエンツェンベルク家が結婚して、農場はエンツェンベルク家の所有になります。

まったく、イタリアワインの話とは思えない、聞きなれない名前が並びますねえ。
もっとも、南チロル地方は、第一次大戦でイタリア領になるまでは、ずっとオーストリア領でした。
第二次大戦終了時に、住民が、イタリアの一部でいるよりオーストリア領に復帰したい、と望むほど、オーストリアとの結びつきは強い地域です。


さて、ミヒャエル伯爵ですが、この人、すごいです。
まず、ドイツでワイン醸造学を学び、その後、カリフォルニアのワイナリーで1年働き、フィレンツェで1年間イタリア語を勉強し、アルト・アディジェワイン業界の大物、アロイス・ラゲーデルの流通部門アシスタントとして2年間働いています。

こうして様々な分野で経験を積み、さて、いよいよ自分のワイナリーに着手。
50年間一族の間では忘れ去られていたマニンコールの農場を、復活させたのです。

しかも、ただワインを造るだけではありません。
あっと驚く発想でワイナリーを建てて、年間1万人が訪れる注目の場所にしてしまったのです。

その発想とは、カンティーナを畑の下にもぐらせる、というもの。

カンティーナもテロワールの一部、という思いを形にしたものなのだそうです。
自然との共生というテーマが、見事に具現化されています。

こちらがカンティーナを上から見たところ。

中央の黒い部分が、ワイナリーの入り口。
その真上はぶどう畑です。

こちらはテイスティング室。


そして下は、先週upされた動画。
マニンコールの畑から、「日本のみなさん、コンニチハ♪」
伯爵もかい。






いろんな伯爵がいるもんですねえ。


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関連誌;『VS』2008年7月号
「マニンコール」の記事は「総合解説」'07&'08年7月号に載っています。

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2010年10月18日月曜日

プーリアの伯爵家、コンティ・ゼッカ

今日はワインを造る伯爵家の話。
『VS』の記事の解説です。


プーリアのワイナリー、コンティ・ゼッカは、日本語に訳せば、「ゼッカ伯爵家」。
自ら「伯爵」と名乗っているワインメーカーですねえ。

そのワインは、シンプルでスタイリッシュなラベルが特徴。

こちらはドンナ・マルツィア・プリミティーヴォ2006。

Donna Marzia Primitivo Conti Zecca 2006


コンティ・ゼッカのweb pageはこちら


ゼッカ伯爵家は、16世紀にナポリからプーリアのレヴェラーノにやってきました。
ブーツ型のイタリアの、ヒールの部分です。
そして、レヴェラーノに広い領地を所有して、ぶどう栽培を行っていました。

アルチビーアデ・ゼッカ伯爵が、所有地で栽培されたぶどうを自らで醸造するためにカンティーナを造ったのは、1935年のこと。

戦争中は、土地の一部が軍用地として強制的に買い上げられ、そのために所有地全体が同盟軍の爆撃にさらされたのだそうです。
しかも戦後は、農地解放で大土地所有が制限されて、多くの土地を手放すことになり、踏んだり蹴ったり。
気がつけば、ゼッカ伯爵家の土地は、町から集落にまで没落していました。

けれど、そこでめげなかったんですねえ。
40年代末、息子のジュゼッペ・ゼッカ伯爵が、コンティ・ゼッカブランドのワインの販売を始めます。
土地も少しずつ買い戻して、失った土地の約半分を取り戻したのだそうです。
現在は800ヘクタールの畑を所有しています。
東京ドーム約170個分。

そしてワインビジネスは、現在、ジュゼッペ・ゼッカ伯爵の4人の息子たちに受け継がれています。


下の動画で話をしているのは、長男のアルチビーアデ・ゼッカ伯爵。





伯爵の雰囲気、あります?


次回は、北イタリアの伯爵家のワイナリーの話です。




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関連誌;『VS』2008年6月号
「コンティ・ゼッカ」の記事は「総合解説」'07&'08年6月号に載っています。

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2010年10月15日金曜日

イタリア貴族

今日はワインの話。
『VS』の記事の解説です。

イタリアって、お貴族さまが多いですよねえ。
特にワイン業界には、伯爵だの侯爵だのがわんさかいるような気がします。

イタリアは、1861年から1946年までは、「イタリア王国」でした。
王様はサヴォイア家。
でも、第二次大戦後の1946年、国民投票によって廃位が決定。
王家は全員国外追放となりました。
1948年には、貴族の称号も非公認となります。

現在のイタリアでは、貴族を名乗ることは違法ではありませんが、法的な特権はありません。
伯爵や侯爵という称号に高貴さの違いは特になく、力関係で重要なのは、家柄の古さ、歴史的な業績、婚姻関係、所有地の広さや安定性などなんだそうです。


サヴォイア家は、2002年に帰国が許されました。
イタリア最後の国王、ウンベルト2世の息子、ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイアは、2003年に帰国しましたが、マフィアがらみで逮捕されるなど、黒い疑惑が絶えない人で、分家筋から家長宣言をされて裁判になるなど、どろどろのお家騒動になっています。


サヴォイア家当主、ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア





息子のエマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアは実業家。
ここでは踊っていますが、サンレモ音楽祭で歌も歌いました。





国民からの支持はかなり低いサヴォイア家ですが、イタリア中に貴族の称号を持つ人はたくさんいて、地元ではそれなりに敬意を払われています。
外国人から見れば、「貴族」という言葉はなんともリッチでセレブな響き。
ワインのイメージには、まさにぴったりですねえ。

イタリアワインによくある貴族の称号は、
コンテ Conte(伯爵)
マルケーゼ Marchese(侯爵)
プリンチペ Principe(王子)
ドゥーカ Duca(公爵)
あたりでしょうか。

次回は、ある伯爵家のワインの話です。




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2010年10月12日火曜日

ジェラートの話、その4

ジェラートの話、続けます。

パルマに美味しいジェラテリーアがありますよ~、と情報をいただきました。
Italiamamaさん、Grazie!!

ピンボケで申し訳ないのですが、パルマのドゥオモの横、「K 2」(カッパ ドゥエ)というジェラテリア、毎日のように食べていたので、すっかりお店の人と顔なじみになりました。
グロムもパルマにはありましたが、私はこちらの方が気に入っていました。
本来は、2種類のGeratoをバラの花びらにようにきれいに盛り付けていてまさに、芸術的なのですが写真ではよくわからず残念です。
Italiamama 












ほお~、バラの花のように盛るんですね。
アップで

こちらは3種盛り。

さすがは本場、色んなジェラテリーアがありますねえ。


さて、前回紹介した動画、『Storia del Gelato』ですが、これには続きがあります。

こちらはPart2。
まず、映画監督のアンソニー・ミンゲラが、イギリスに渡った移民の職業について、こう語っています。
「中国人はクリーニング屋、インド人はレストラン、そしてイタリア人はジェラート売りと言うのが一般的でした」

次に、ジェラート研究の第一人者と言われる人物が、ジェラートの考案者について、カテリーナ・デ・メディチの料理人説、マルコ・ポーロ説、ベルナルド・ブオンタレンティ説は、全て単なる言い伝えで、何の根拠もない、ときっぱり切り捨てています。
さらに、コーンが発明されたのは1904年のセントルイス万博、という有名な説も、1807年に描かれた版画に、コーンに入ったジェラートを食べる女性が描かれているのを見せて、ばっさり。
結局、確かな説は何一つない、ということですね。

Part4では、1850年当時の、機械を使わない文字通り手作業のジェラート作りを実演して見せています。
なんと、アフガニスタンでも、ナポリでも、露店のジェラートは、今でもこの原理で作っているんですねえ。
後半は、ジェラート製造の機械化の話。
サッチャー元首相は、オックスフォード大では化学が専攻で、企業に就職してアイスクリームに空気を含ませる研究をしていたこともあるそうです。







おまけの動画。
Part1で紹介されていたフィレンツェのヴィヴォリ。






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関連誌;『ヴィエ・デル・グスト』2008年8月号
「ジェラート」の記事の解説は、「総合解説」'07&'08年8月号に載っています。

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2010年10月7日木曜日

ジェラート物語

ジェラートの話の続きです。
『ヴィエ・デル・グスト』の記事の解説です。


古代ローマの、雪に蜂蜜や果汁を加えた原始的なソルベットは、中世には、液体を氷と硝酸カリウムで冷やして凍らせるソルベットへと進化しました。
なんでも、氷と硝酸カリウムを混ぜると、-25度まで冷えるのだそうです。

さらに、液体の入った容器を氷にあてながら回転させることによって、肌理の細かい氷の粒ができるようになりました。

そしてルネッサンスの頃、クリームを凍らせて作るジェラートの原形が登場します。
その考案者として名前がよく引き合いに出されるのが、ベルナルド・ブオンタレンティです。

彼は、16世紀にフィレンツェの宮廷で活躍した画家、作家、建築家で、典型的なルネサンスの才人でした。
リヴォルノの都市計画も手掛けています。

そんな天才が、なぜか料理の世界では、ジェラートの考案者として知られています。
おそらく、言い伝えが言い伝えを生んで、一種の都市伝説になってしまったのでしょうねえ。

彼はメディチ家のために様々な仕事をしましたが、その中には、スペインからやってきた客人の一団をもてなすための、余興の演出というものまでありました。
ブオンタレンティは、庭園やアルノ川で芝居を催し、花火を上げ、ベルガモットと柑橘果汁入りのクリームを、自らが発明した設備で凍らせてふるまったのだそうです。
当時の記録が残っているのは、凍らせる設備の方なのですが、なぜかジェラートの方が伝説に・・・。

ちなみに、その設備は、フィレンツェの街の壁の内側に、冬の間に降った雪を保存するという画期的なもので、現在でも、Via delle ghiacciaieという名前の通りとして残っています。


もう一人、ジェラートの歴史の話に必ず登場するのが、フランチェスコ・プロコピオ・デ・コルテッリという人物。
1651年にシチリアに生まれた彼は、パリで最古のカフェ、「ル・プロコープ」の創業者で、「ジェラートの父」と呼ばれる人です。

彼は、現在のジェラートとジェラテリーアの直接のルーツとなるものを考案したと言われています。
1686年にル・プロコープがオープンすると、ジェラートは一躍大人気になりました。
ルイ14世にもお墨付きをもらったことでさらに有名になり、ヨーロッパ中にジェラートの評判が広まります。


それ以降、ヨーロッパ、アメリカ、そして日本へと、ジェラートとジェラテリーアは拡大していったのでした。


下の動画は、「ジェラート物語1」。
ジェラートにまつわるドキュメンタリーです。

イタリアで最も古いジェラテリーア、ブルストロン(ヴィチェンツァ)の5代目(!)は、
「1960年代まで、40歳以上の大人はジェラートなんて買わなかった」
と言っています。
フィレンツェで一番有名なジェラテリーア、ヴィヴォリでは、祖父と父親から技を受け継いだシルヴァーナさんが、祖父のリチェッタのスペチャリタ、マルサラのザバイオーネのジェラートを作っています。
ヴェネトの山の中にあるゾルドという村は、ジェラート売りの故郷と言われています。
毎年2月になると、大勢の人がジェラートの行商に出て行きました。
外国に行く人もいたそうです。
そして帰って来るのは10月でした。
移民となって、牧畜の盛んな国でジェラテリーアを始める人もいました。
イギリス人映画監督、故アンソニー・ミンゲラ(代表作は『イングリッシュ・ペイシェント』)は、イタリア人とスコットランド人のハーフで、父親はジェラテリーアを営んでいました。








『ジェラート物語』はまだ先があります。
それは次回に。



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関連誌;『ヴィエ・デル・グスト』2008年8月号
「ジェラート」の記事の解説は、「総合解説」'07&'08年8月号に載っています。

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2010年10月4日月曜日

ジェラートのルーツ

ジェラートの話に戻ります。
『ヴィエ・デル・グスト』の記事の解説です。


イタリアが世界に誇るメイド・イン・イタリーの1つ、ジェラート。
そのルーツは、古代ローマにあるというのが定説です。
ただし、当時のそれは、現在の、牛乳、砂糖、卵黄がベースのジェラートとはまったく別のものでした。
細かく刻んだ氷に蜂蜜や果汁を加えてクリーム状にしたもので、どちらかというとソルベットに似ています。

ローマ人は、雪と氷を食べる習慣と、これらで食べ物を冷やすことを、ギリシャ人から教わったと言われています。
エジプトやアジアにも、雪に蜂蜜や果汁をかけて食べる習慣はありました。

Istituto del Gelato Italiano(イタリアンジェラート協会)のサイト(hpはこちら)によると、聖書にも、ジェラートのような食べ物が出てくるのだそうです。
旧約聖書の『創世記』の登場人物、イサクが、父のアブラハムに、山羊のミルクと雪を混ぜたものを出す場面があるのだとか。

Maestri della Gelateria Italiana(イタリアンジェラートマスター協会)のサイト(hpはこちら)では、冷たい食べ物や、冷やして食糧を保存する技術は、中国からインド、ペルシャ、アラブ経由で地中海に伝わったのでは、という説が紹介されています。


古代ローマ人が食べていた雪は、ローマから100km離れたテルミニッロ山や、ナポリのヴェズヴィオ山、シチリアのエトナ山から運ばれて、氷室で保存されていました。


Monte Terminillo
標高2217mのテルミニッロ山(ラツィオ州)



古代のソルベット文化は、ローマ帝国の崩壊と共に消え去ります。
没落したイタリアに、遠くの山から雪を運んで保存するほどの金と力を持った人はいなかったのでしょう。


果汁を刻み氷にあてて凍らせる技術は、アラブ人によってシチリアに伝わったと言われています。
一説では、アラビア語で「甘い雪」という意味のscherbetと言う言葉が、ソルベットの語源と言われています。
「すする」という意味のsharberが語源とする説もあります。


Etna Volcano, Sicily
シチリアのエトナ山は標高3340m。



塩を使って氷の温度を下げ、人工的に物を凍らせる方法は、どういう訳か、マルコ・ポーロが中国から伝えた、という言い伝えが広まっているようです。

ところで、蜂蜜って凍らないんですか?
蜂蜜を使ってグラニータはできないので、シチリアでグラニータが誕生したのは、砂糖が登場してからなのだそうです。
サトウキビから作る砂糖は、10世紀頃にアラブからイタリアに輸入されるようになりました。
当時は「アラブの塩」とも呼ばれる高級品です。
13世紀になって、シチリアで栽培が試みられるようになりましたが、量はごくわずかでした。


シチリアで洗練された食べ物となったソルベットは、イタリア各地の宮廷に広まりました。
さらに、回転させながら凍らせてもっとクリーミーにする方法が考え出されて、ソルベットは徐々にジェラートに近づいていきます。



ジェラートメーカーなしでレモンのグラニータを作る方法







ジェラートの話、次回に続きます。



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関連誌;『ヴィエ・デル・グスト』2008年8月号
「ジェラート」の記事の解説は、「総合解説」'07&'08年8月号に載っています。

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マリア・ルイジアの小さな街、パルマのバターとグラナの娘、アノリーニ。本物は牛と去勢鶏のブロードでゆでます。

昨日の最後にサラっと登場したアノリーニですが、このパスタ、(CIR12月号P.5)にもリチェッタが載っていました。クルルジョネスの次の料理です。花の形の可愛い詰め物入りパスタ、なんていうのがこのパスタの印象ですが、イタリア人は、こんな風に思ってるんですね。 「マリア・ルイジアの小...