イタリア料理ほんやく三昧: 『ハリーズ・バー』

2018年2月5日月曜日

『ハリーズ・バー』

先日、クレアパッソのHPでアッリーゴ・チプリアーニ著『ハリーズ・バー』を紹介しましたが、久しぶりに読んだ本の内容がとても面白かったのでちょっと訳してみることにしました。


それでは、序文をどうぞ。

「もし1929年にクレジットカードがあったら、現在ハリーズ・バーは存在していなかっただろう」

私の父、ジュゼッペ・チプリアーニは1900年にヴェローナで生まれた。
その後彼の家族はドイツに移民する。
ジュゼッペの父親のカルロは工事現場の下働きなどをしていたが、
第一次世界大戦がはじまると、ジュゼッペはイタリアに戻ってカメリエーレになった。
そして1928年に、ヴェネチアのホテル・エウロパのバーテンダーになる。
彼の担当の客の中に、ボストン出身の若いアメリカ人がいた。
ハリー・ピッカリングという名のとても裕福な青年だったが、当時はまだ、我々に取ってはラッキーなことに、アメリカン・エクスプレスは発明されていなかった。
ある日このアメリカ人青年は(誰も彼がリッチだとは知らなかった)、突然私の父のカウンターで飲むのをやめた。
そしてティールームのテーブルの間をうつろな目をした憂鬱な顔でぶらつきだした。
私の父は現実的な人間だった。
支払いが確かな客でも客の顔つきから目を離すなと言うことを教わっていた。
一呼吸おいて、父は青年の元に行き、何かあったのかと尋ねた。
青年は少しためらったが、結局すべてを語った。

彼は、彼の厳格で裕福なアメリカ人の叔母とヴェネチアに来ていたが、叔母は怠惰な甥に耐えられなくなっていた。
甥の浪費と酒癖の悪さが彼女を苦しめていた。
ついに彼女はアメリカに帰る決意をした。
しかも一人で、甥には一銭も残さずに。
父は彼に、必要ならお金を貸しましょうか、と申し出た。
ハリー・ピッカリングは答えた。
「本当に貸してくれるんですか?」
父はsiと答え、彼に金を貸した。

こうして、この若くてやや自堕落だが、誠実な顔をした人懐こい青年は、私の父から金を借りた。
当然だが、父は私の母には何の了解も取らなかった。
金額は、1万リラだ。
2年後、青年は借金を返すためにヴェネチアに戻ってきた。
到着するなりすぐに父に会いに行き、全額を返済した。
そしてこう言った。
「そしてこの3万リラはバーの開業資金だよ」

ハリーほどこの店にふさわしい名前はない、と考えた父は、店をハリーズ・バーと名付けた。
もしミスター・ピッカリグがクレジットカードを持っていたら、借金をすることもなく、私の父との金の貸し借りはなかっただろう。
働き者の私の父のキャリアの中で、これは彼が唯一行った取引だった。

こうしてハリーズ・バーは誕生した。
この店のことを家族は単に"バール"と呼ぶ。
そこには、セレブも単なる人間だと考えるヴェネチア人気質が表れている。
私はバールの中で生まれた。
バールがなかったら、私の考え方も行動も違うものになっていたはずだ。
多くの客が好奇心から、この店の歴史を訪ねる。
そしてもっと多くの人が、一日の売り上げはいくらか、客は何人か、ヘミングウエイやオーソン・ウエールズが座った席はどれか。そのほか多くのことを聞く。
私はアダムはバールを経営していたと確信している。
彼が客に彼のバールがどのように生れたか語ったことは、すべて書き留められて世界の初めについての本になった。
私が父がどうやって店を始めたかについて語ったことは、いつか伝説になると確信している。




リチェッタの翻訳は「総合解説」2015年11月号に載せる予定です。


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